トゥール・スレン虐殺犯罪博物館

それは、カンボジア首都のプノンペンにあります。ここでMengさんに、手話で詳しくガイドをしてもらったのですが、言葉を失うくらい凄惨な場所でした。

キリング・フィールド

実は先日、私たちはベトナムのホテルで「キリングフィールド」という映画を観ていました。この映画を超要約して一言で表すと、英国人とカンボジア人のふたりのジャーナリストの視点で描かれたカンボジア大虐殺、です。博物館を訪れる前の予習としては足りないかもしれないけど、いかにクメール・ルージュが異質だったかはよくわかりました。

今から38年前の1976年に、学校であったこの建物はクメール・ルージュのもとで刑務所と化し、2年9ヶ月の間に15,000〜20,000もの人がここに収容されて、ほぼ全員(生存者はわずか8人とか)キリング・フィールドに運ばれて処刑されたようです。そして1979年にこの施設が発見されて以来、博物館として残されています。

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たった38年前にこんな歴史があったとは、にわかには信じがたいのですが、目の前に存在する光景を目の当たりにして、いやでも事実だと認めざるを得なくなります。

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ベトナム兵が最初に見つけた遺体の墓。

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A棟。尋問を受けることが決まった者は、まずB〜D棟からここA棟の二階か三階に移動されて待機した後、一階で尋問を受けていたようです。

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ドアの前の警告。『静かに』ということなのでしょうが、イラストがかなり不気味です…

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A棟の一階にある、尋問が行われた部屋。血糊がぺったりと残っていて雰囲気が重く、居心地が非常に悪いです。

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この尋問室で行われた当時の写真。かなり酷いです。警察官などたくましい男性の場合、鎖を足だけでなく手も腰の後ろに繋がれていたようです。

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A棟の二階。広い部屋が並んでいます。

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広い部屋では、この鎖で足元を繋がれていたようです。当然、動けないので糞尿まみれだったそうです。二週間に一度、水が流されていたようですが、排水口に近い人は衛生面で非常に条件が悪くて死んでしまう人もいたとのこと。

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クメール・ルージュが着ていた服も展示されていました。

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クメール・ルージュのメンバーの写真の一部。ご覧のとおり、若い年代が多いです。若いほうが社会主義に染まるようマインドコントロールがしやすく、年配と比べて人を殺すことにためらいが少ないため、重宝されていたようです。

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処刑された人たちの写真。名前ではなく番号で管理されていたようです。非常に沢山展示されていました。

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クメール・ルージュは非常に細かく記録を取っていたようです。一体何のために?と思い、調べてみましたが、クメール・ルージュに反する者の情報をこれだけかき集めたという実績作りだけのためだったようです。

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なんと生き残った八人のうちの二人がいました。本を売るなど啓蒙活動をされているようです。Mengさんが何かを言うと、ムチに叩かれてひん曲がった手の小指や、爪で剥がされた足を見せてくれました。80近くとかなりの高齢のようで、数年後にはいなくなっちゃうとMengさんが言っていました。本当に最近の出来事なんだなと背筋が寒くなりました。

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B棟。B, C, D棟は同じ構成になっていて、A棟に移動させられる前の待機場所として使われていたようです。脱獄防止として、男性はレンガ壁で女性は木の壁が使われていたようです。

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独房の中はこんな感じでした。ここは、上記の生き残った方が実際に収容されていた場所のようです。足は鎖で繋がれ、糞尿も垂れ流しで、食事も床に置かれてとても食べられるものじゃないけど、食べないと殺されてしまうので我慢して食べていたようです。

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奥の方には拷問器具もたくさん展示されていました。よくもまあこんな残酷な方法を思いつくなと…。

そして重い足取りのまま、トゥクトゥクでキリング・フィールド(処刑場)に向かいます。



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